2013年5月29日水曜日

【連載コラム】井上×小野寺対談 「2012年の活動」


・代表になる

井上:20124月から僕が代表になった。

小野寺:それは選ばれて代表になったのか、立候補したのか?

井上:どっちも半々くらい。

小野寺:やりたいと思ってやったのか、頼まれてやったのか?

井上:こういう立場は好きだった。人前で話すことも嫌いではなかった。当時のHARUは半期ごとに人事が代わるシステムで、半年で代表も代わるのかなというイメージだったから気楽に考えていた。なんだかんだで1年やった。(省略)5月は教育支援の活動拠点が石巻大橋仮設住宅に決まり、まともになってきた。この間も個人的に継続して半澤農園に行っていた。

 

・半澤農園へインターンシップ

井上:20127月から、半澤農園にインターンシップで入った。それまではボランティアだったが、経済学部でインターンで単位が取れるというのがあったから。やっていることは自分なりには変わった。今まではボランティアとして農園に行った立場から、ボランティアを集める立場になった。当時は外部向けにボランティアがあるということが一般の人は分からなかったり、なかなかボランティアが見つけにくい状況だった。震災直後はがれき撤去行けばいいとか、住居の片づけやればいいとか内容が分かりやすかった。しかし震災から時間がたって、いわゆる「復興の踊り場」じゃないけど、その時から踊り場に近い状態に入っていたと思う。僕はそれを問題だと思っている。ボランティアをやりたい人が周りにいる中で、僕が「ここでボランティアが出来るよ」という情報を発信して来てもらうということを、去年の夏からずっとやっていた。それが主なインターンシップの仕事だった。それによって広島、大阪、東京などからボランティアが来てくれて、コーディネートをした。

小野寺:情報発信というのは具体的にどんなことをしたか?

井上:社会人のボランティアの人とつながりがあったから、その人にある程度協力してもらって、半澤農園のブログを作った。あとは個人的なつながりがボランティアを通して出来ていたので、その人たちに声をかけていき、人が人を呼んで意外と来てもらった(学生を中心に)。農園を3人(とくひろさん、お父さん、お母さん)でまわしていくのは大変なので、夏場のボランティアはありがたかった。

小野寺:2012年の7月は農園でどんな作業をしていたか?

井上:苗を植えて、いらない葉っぱを切ったり、ランナー切りなど。

小野寺:出荷はいつから?

井上:だいぶ先で、12月。震災の年にはもうできていた。夏は第2期になるときの、新しい苗の管理・準備をやっていた。その時に東北大の人たちが来てくれた。何が大変かというと、苗の移動。

小野寺:インターンシップの期間は?

井上:4ヶ月やった。週に1回だが、7,8月はけっこう行った。時間数は110時間くらいで、一日8時間。

小野寺:半澤農園の方と仲が良くなっていったのはインターンシップを通してから?

井上:もっと前から。農園にボランティアで入ったときからわりと受け入れてもらっていたから、僕が人を集めることに対しては抵抗がなかった。家族みたいな雰囲気でやっていた。

小野寺:農家に一ボランティアとして入って、誰でも仲良くなれるものではないと思うが、なぜ仲良くなれたのか?それは定期的に来れたからなのか、学生だったからなのか?

井上:僕が8月に初めてボランティアに行った時、沢山の人がいる中で僕だけ浮いていて、お母さんが「この子は違う」と言っていた。僕が東北人ということあったし、なまりがわかるとか、東北の感覚というものがあるのかもしれない。当時のボランティアには、変な話通訳が必要だった。若林区とかに行くと、農家のおじちゃんは何を話してるか分からないから、翻訳して東京の人に話すことをしていた。なぜか分からないけど、僕に声をかけてもらった。本当に僕から行ったのではなくて、向こうから「また来てほしい」と言われた。そして色々な活動のなかで信頼関係が出来ていったと思う。

 年末は年賀状作りをまたやった。年賀状の素材作りのために写真撮影会をやったが、震災の年は人を呼ぶことが出来なくて、せいぜいいちごの写真しか撮れなかった。しかしお母さんの想いとして、人が沢山来てもらったから、感謝の気持ちがわかる年賀状を作りたいとのことだった。今のネット中心の社会の中で、2011年の年賀状と違い、一言感謝の気持ちを一枚一枚に書いた。それで僕のインターンとしての仕事は一区切りした。

 そこで思ったのが、「僕がいなくなったら、この活動は厳しくなるのではないか」ということで、HARUのプロジェクトにしようと夏休みくらいから考えていた。僕じゃない人がこの活動をやってもいいし、4年になり進路も関わってくるところで、ずっと付き合えることが出来なくなるし、後輩に譲っていかなければならない。その中でプロジェクトの形にしておくと動きやすいのではないかと思った。そして正式に動いたのは冬ぐらいからだった。このような経緯でいちごプロジェクトが出来た。僕がいなくなっても、せめて半澤農園に関わる手段だけでも残しておきたかった。なかなか、個人が個人の農家に支援するというのは僕みたいな特殊な事例がないと出来ない事で、それに加えて自分がやってて楽しかったから他の人にもやってほしいと思った。

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東北大学地域復興プロジェクト"HARU"は、
東日本大震災からの復興支援・地域再生を目的として結成されたボランティア団体です。
現在は主に、仮設住宅での
支援活動をおこなっています。
東北大学の公認をいただいており、今後も地域に寄り添った活動を続けていく予定です。