2013年5月26日日曜日

【連載コラム】井上×小野寺対談 「震災~最初の夏休みまで」

こんにちは!

HARUの井上です。先日、メンバーの小野寺さんと対談形式でHARUのことやこれまで携わってきたボランティア、個人の思いなど話したので、今日からちょっとずつ公開していこうと思います

今日は「震災~最初の夏休みまで」です


HARUの活動について

HARUに入ったきっかけ

小野寺:HARUという団体に入って、どんな活動をしてきたか?個人でやってきたこと、団体でやってきたこと、両方を教えてほしい。

井上:(HARUの成立について)HARUは、震災直後の2011324日に、もともとは教授の先生が立ち上げ、復興メーリングリストという形でボランティアの学生を募る形で活動が始まった。当時はがれき撤去や、避難所の炊き出し支援、写真の洗浄作業、留学生のための通訳のボランティアがあった。僕は個人的には交通整理と呼ばれる活動で、山元町の中で規制がかかっている場所に、野次馬で入ってくる車を迂回させるボランティアを消防団の人と一緒にやっていた。あとは避難所の衛生環境調査なんかもやった。食べ物は衛生的か、手洗いをしているか、そんなことまでチェックをしていた。これが震災後のゴールデンウィークの活動である。

小野寺:そのような交通整理や、衛生環境調査などの詳しい活動内容は誰に依頼されてやったのか?

井上:直接、山元町に依頼されてやっていた。

小野寺:山元町への交通手段はどうしていたか?

井上:毎回大型バスにのって、40人前後を山元町に派遣していたのが当時のHARUの活動のかたち。3月末から春休みのあいだは毎日大学から出るバスで行っていた。今のHARUのメンバーで当時のことを知っているのは4人位しかいない。その時は僕は一人の参加者として居て、運営にまで関わるとは思っていなかった。

小野寺:最初は一メンバーとしていたということか?

井上:はい。当時の1000人を越えたメンバーのうちの1人であった。中心メンバーと話すことはあまりなかった。

小野寺:徐々に活動を増やし、メンバーの核として動くようになったのはいつごろからか?

井上:かなりの紆余曲折があった。

 

 
 
・学校が始まってからの活動(2011.5~
井上:学校が始まってからは、足しげく被災地に行くことが出来なくなってきた。午前中で学校が終わる日などは、宮城県第二総合運動場(長町のICの近く)に支援物資がいっぱいトラックで来る、それを各被災地に適切な分量を分配する活動をやっていたのが56月。その中で行けるときは週末に山元町に行って写真洗浄のボランティアをやっていた。7月中旬にHARUはいったん解散した。メンバーが膨れ上がり過ぎて、震災直後のとにかく人が欲しいという段階から、顔の見える範囲で活動できるようにしたいという段階になった。解散のあとは社会人のボランティア団体に参加していて、僕個人としては移動手段がなかったので社会人の方に乗せていってもらっていた。学外との関わりもその辺から増えていった。主に活動は山元町が多かったが、女川、若林区の辺りで住居の整理とか、畑のがれき拾いをやったりしていたのが78月の夏休み期間。
 
 

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東北大学地域復興プロジェクト"HARU"は、
東日本大震災からの復興支援・地域再生を目的として結成されたボランティア団体です。
現在は主に、仮設住宅での
支援活動をおこなっています。
東北大学の公認をいただいており、今後も地域に寄り添った活動を続けていく予定です。